エッセイ

 

 


  大体、文化というのは長い間にある特定なカテゴリの地域的な生活環境を巡って、

その生活空間の境界の中で自然に無形の約束が生まれ、

その共同の民族や住民の間に無意識に生まれ、

又、当然の事のように受け入れられる「何か」であろう。

人間文明の発展過程で「焼き物」というのは人間の生活に利便性という

単純なこと以上の意味をもたらした。

それは実用という一言で云えるものではあるものの、そこには焼き物自体を通じ、

空間の中で飾り、生活の中でいつも一緒に暮してきたわけで文化と云われる

その「何か」に含まれた存在になったのは当然のことかもしれない。

焼き物というのは時代の変化と共に生活空間が変るのと同じく、

その時ごとに何か違う雰囲気を表すのも、それほどその時代人との係わりの密接さを

語ることだとも言える証であろう。

わが国の歴史の中ではとても対照的だと言うべき歴史と文化をもった時代があった。

それは武士の国であり、武士の心を表していた「高麗青磁」と、文士の国であり、

文士の心を表出していた「朝鮮白磁」がそれである。

当然のことながら、「高麗時代」には華麗な青磁が誕生し、

朝鮮時代には風流を楽しんでいた詩人墨客の象徴でもある白磁がその時代を風味した。

焼き物はその時代人の生活と共に生き、またその時代人の運命とともに消滅した。

しかし、現代は武士でも文士でもない「自由人」の時代である。

したがって長い間この土地で誕生し、また消滅してきた高麗の青磁や朝鮮の白磁も

一緒に当時代になって現代作家の手によって生き返って多様性をもちながら

我々の目の前にとうとうたる姿で現われ我々を楽しくしてくれる。

実に、私達は幸せな人々である。

そのため、私達は焼き物を見、触り、使いながら遊ぶのである。

それを通じて焼き物が伝えてくれる「心」を感じ、又、それを媒介にし愛好家の間でも

心を伝えることができるのである。

いわゆる「陶遊」であるし、そうであると言えよう。

陶で遊ぶ人は名誉も知識の多少も要らないのである。

少なくともその時だけは……

だから贋物を作り、売り、それをどうかして見ようとすると焼き物の「心」は

なくなりそれを通じ「心」の交流も感動も遊ぶことなんかはもっとも出来なくなるのである。

既にそれを作る意図の心が含まれているからであろう。

その意味で私はこの「陶遊」できる「陶遊」で「陶遊」している人々とは

何時も気軽く話せるかも知れない。そして、いつも「陶遊」で「陶遊」したい

飛鳳 金 鎭弘(陶藝評論家)
 

 

ソウル特別市中区小公洞1 Hotel Lotte B1 ARCADE
        電話 : 02-776-1760 Fax : 02-752-9048

 

Copyright © by DOYU All rights reserved.